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日本語学者、金田一秀穂さん(右)
4月1日、新元号「令和」が発表されると、すぐにテレビに金田一秀穂さんが出てきて、持ち前の人柄のよさで「令和」を一生懸命よいしょしていた。
金田一さんによると、「令和の『令』というのは古い意味では神様のお告げという意味。そして『皆が仲良く』ということなんだろうと思います。いい言葉なのではないでしょうか。いま調べたら令月というのはおめでたい月だと。全ての物事を行うのによい月だと。だから始まりのとってもいい月なんだよということですね。神様に代わって自分たちが命令、法令を下すということですね。だから、いい月、とてもおめでたいのです。風が穏やかで和やかであると。とても季節感あふれる言葉とでも言えばいいでしょうか。」
金田一秀穂さんは祖父の金田一京助、父の金田一春彦という二大学者の七光りで学者になれたと言われるが、文筆界や芸能界はそうそう甘いところではないので、視聴率が取れなければすぐに消えてしまうものだ。彼がずっと出ているのは彼の人柄のよさが人を惹きつけるからだと思う。
しかし新元号「令和」については、
金田一先生、それ、本当にそうですか?(笑)
たしかに新元号を「万葉集」から採ったこと、また「和」という語を持ってきたことはじつに素晴らしいと思う。
万葉集は、この日本列島で2万年にわたって平和で愛に溢れた文化を築いてきた縄文日本人から生まれた歌と、2300年前にやって来て日本を侵略した天皇家や秦氏などの弥生人の歌との、両方がコラボして掲載されている。世界でも稀な偉大な歌集である。
そして縄文日本人の精神こそは「和」の精神である。山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人の暴力による死亡率はわずか1%代。海外の諸民族はいずれも10%を超えているので、縄文日本人は世界で稀にみる平和な民族であった。縄文日本人は「和」を好み、互いに争わず、互いに助け合って2万年にわたる平和な社会を築いてきたのだ。
じつに新元号を「万葉集」から採ったこと、そして「和」という語を持ってきたことは本当に素晴らしいのだ。
しかし「令」のほうはどうだろうか。
たしかに「令」というのはもともと「神様のお告げ」という意味で、だからもともとは「ありがたい」言葉であった。だから何を行うにも「おめでたい」「よい」言葉であった。
しかし、2300年前、天皇家などの弥生人が侵入してきて、「自分たちは神の子孫だ」と嘘をついて、神様に代わって縄文日本人に命令し、法令を下すようになった。すなわち侵略者が縄文日本人に「令」を下すようになったのである。
こうなると、「令」はそれまでと同様にありがたくおめでたい言葉だろうか?
その「万葉集」の第1巻の巻頭には支配者である雄略天皇の傲慢なナンパの歌が載っている。
万葉集の雄略天皇の歌:
(ある天気のいい日に雄略天皇が丘の菜畠を通りかかると、美しい娘が籠を持って菜を積んでいた。それでさっそく天皇は声をかけてナンパにかかった。)
「籠を持って菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? 黙っていたらわからないじゃないか。それじゃあ僕のほうから名乗ってやる。家柄と名前を聞いて驚くなよ。この大和の国は全部僕が支配しているんだぞ。」
なんという傲慢でアホな歌か。
他にも雄略天皇の歌はいくつか残っている。
たとえば古事記下巻に載っている雄略天皇の歌:
(雄略天皇が吉野に行幸したとき、吉野川のほとりで美しい少女を見つけたので、さっそく捕らえて性交した。後年、再び吉野に行幸したら、同じ場所でその少女に再会した。それで天皇は床几に坐って琴を弾き、少女に舞を舞わせた。そのときに詠んだ歌。)
「あぐらをかいて座っている神(自分のこと)の御手で琴を弾く。それに合わせて舞う女よ、いつかまた僕が来るときのために、いつまでも若く美しくいてほしいよ。」
なんという自分勝手なヤツか。
同じく古事記下巻の雄略天皇の歌第二弾:
(雄略天皇が、年配だが美しい女性を見つけて詠んだ歌)
「引田の地に、若い栗林があるだろ。あれみたいに、お前が若い時に一緒に寝たかったのに、お前は年老いてしまったなあ。ああ・・・」
お前は猿か。
同じく古事記下巻第三弾:
(雄略天皇が日下部の姫を娶ろうとして河内に行幸したが、姫から使いが来て、恐れ多いですから、姫の方から宮へ参りましょうと言うので、天皇は宮へ戻ることにした。その時に天皇が詠んだ歌。)
「日下部の山と平群の山にはぎっしりと竹が生えているなあ。ああ、姫のところで共寝することができなかったなあ。でも後でしっぽり寝ようよ、僕の恋しい姫よ、ああ・・・。」
もうあきれて言葉がない。
同じく古事記下巻第四弾:
(雄略天皇が春日の姫を娶ろうとして春日に行幸したとき、途中の道で美しい乙女に遇った。しかし乙女は逃げて丘のどこかの穴に隠れてしまった。そこで天皇が詠んだ歌。)
「鉄の鋤(
スキ)がいっぱいあればなあ。あの乙女が隠れている丘を家来たちに片っ端から掘らせて、土を全部はじき飛ばしてやるのに、ああ・・・。」
同じく古事記下巻第五弾:
(雄略天皇が秋津野に行幸して狩をしていた時、床几に座っていると虻に腕を食われた。そこで詠んだ歌。)
「吉野の岳に猪鹿がいると、誰かが大王様(自分のこと)の大前で申し上げた。そこで僕は狩にお出かけになり、獲物が現れるのを待とうと呉座にお座りになったが、すると僕のしろたえの袖の御腕に虻が食いついた。あっと思うとトンボがさっと飛んできて、その虻を食って飛び去った。見てみろ。トンボでさえ僕のために功名を立てようするのだ。そうだ、大和の国をトンボ島と呼ぼう。」
(一部意訳あり(笑))
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう傲慢でアホで猿みたいな男が権力を握って平和な縄文日本人を支配してきたのだ。
そのせいで縄文日本人はあれほど平和だったのに、天皇家などの弥生人によって侵略されて弥生日本人へと変貌すると、日本でも暴力や強姦が横行するようになった。
先の山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人は暴力による死亡率が1%代で極めて低かったが、弥生日本人になると暴力による死亡率が海外同様に10%を超えてしまったのである。
ネットに「令和」についてこんな言葉が載っていた。
「命令や法令を下すのは政府や団体、企業、組織だ。神様に代わって彼らが命令・法令を下すのだから、「令和」とは、その命令・法令がどんなに横暴で不公平で無理強いをするものであろうとも、お前たちは和を乱さず、和を保って働けと命じる、という事ですね。」・・・と。
こうしてわれわれ日本人は、傲慢な猿のような天皇などの支配者たちによって、その命令は神様の命令としてありがたく承れと強要された。
古代においても男は防人や兵隊に召集され、女は天皇などに強姦され、過酷な年貢を取り立てられ、以来、20世紀に至っても召集令状の赤紙が来れば、心で泣いても「ありがとうございます。名誉なことです。」と言って出征していった。周りの人たちも心で泣いても「おめでとうございます。」と言って万歳三唱して送り出したのである。
「令和」とは、神様から告げられるのであればありがたく素晴らしいが、人間の支配者から発せられる以上、文字通り「和を命じる」という意味にしかならない。
本当の「和」とは、外から命令されて実現するものではない。外からくるのではダメなのだ。
愛が各人の心の奥から生じるように、「和」もまた各々の人々の心の奥から生じて湧き上がるものであり、こうした人と人とが寄り集まるから真の平和になるのはないか。
神様は人間をそのように創造したのだ。
だから日本人は先の東日本大震災にあっても、家族を失い、家を失い、全てを失った絶望と悲嘆の極限のなかでも、誰かから命令されたわけでもなく、支配者がいたわけでもなく、ひとりひとりがみな自主的に主体的に、克己心を持って、決して暴動を起こさず、暴力も振るわず、互いに労わり合い、励まし合い、助け合って「和」を実現したのだ。
世界中のマスコミがこの日本人の「和」の姿に、「外国ではありえないこと」と言って驚嘆したのだ。
じつはこれは100年前の関東大震災のときも同じだったのであり、同じように世界のマスコミが驚嘆したのである。
そう、縄文日本人のたぐい稀な「和」の精神はわれわれ現代日本人の魂に脈々と生きているのである。
ルック・イーストという言葉は、マレーシアのマハティール首相が1981年に提唱した言葉だが、日本人の倫理観、忠誠心、労働規律、労使間の協調、すなわち日本人の「和」の精神に学ぼうとする思想である。
このルック・イーストの思想は、1990年以降にその日本経済が大低迷時代に突入しても、変わることはなく、現在に足るまでマレーシアをはじめとする世界の人々のこころに息づいている。2014年にはインドのナレンドラ・モディ首相が「ルック・イーストの中心に日本がある」と述べている。
いま世界から期待されている日本人の「和」の精神は、2万年にわたる縄文の精神に他ならない。それは、自主的、主体的に各々の魂から生じ、自然に周囲と協調し、平和を好み、忠誠心を持ち、自然とも調和して生きてきた精神である。
われわれ日本人は、われわれの魂の奥から生じ、ほとばしる、自主的、主体的な「和」の精神を自覚したうえで、この「令和」という元号を受け入れるべきではないだろうか。
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日本語学者、金田一秀穂さん(右)
4月1日、新元号「令和」が発表されると、すぐにテレビに金田一秀穂さんが出てきて、持ち前の人柄のよさで「令和」を一生懸命よいしょしていた。
金田一さんによると、「令和の『令』というのは古い意味では神様のお告げという意味。そして『皆が仲良く』ということなんだろうと思います。いい言葉なのではないでしょうか。いま調べたら令月というのはおめでたい月だと。全ての物事を行うのによい月だと。だから始まりのとってもいい月なんだよということですね。神様に代わって自分たちが命令、法令を下すということですね。だから、いい月、とてもおめでたいのです。風が穏やかで和やかであると。とても季節感あふれる言葉とでも言えばいいでしょうか。」
金田一秀穂さんは祖父の金田一京助、父の金田一春彦という二大学者の七光りで学者になれたと言われるが、文筆界や芸能界はそうそう甘いところではないので、視聴率が取れなければすぐに消えてしまうものだ。彼がずっと出ているのは彼の人柄のよさが人を惹きつけるからだと思う。
しかし新元号「令和」については、
金田一先生、それ、本当にそうですか?(笑)
たしかに新元号を「万葉集」から採ったこと、また「和」という語を持ってきたことはじつに素晴らしいと思う。
万葉集は、この日本列島で2万年にわたって平和で愛に溢れた文化を築いてきた縄文日本人から生まれた歌と、2300年前にやって来て日本を侵略した天皇家や秦氏などの弥生人の歌との、両方がコラボして掲載されている。世界でも稀な偉大な歌集である。
そして縄文日本人の精神こそは「和」の精神である。山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人の暴力による死亡率はわずか1%代。海外の諸民族はいずれも10%を超えているので、縄文日本人は世界で稀にみる平和な民族であった。縄文日本人は「和」を好み、互いに争わず、互いに助け合って2万年にわたる平和な社会を築いてきたのだ。
じつに新元号を「万葉集」から採ったこと、そして「和」という語を持ってきたことは本当に素晴らしいのだ。
しかし「令」のほうはどうだろうか。
たしかに「令」というのはもともと「神様のお告げ」という意味で、だからもともとは「ありがたい」言葉であった。だから何を行うにも「おめでたい」「よい」言葉であった。
しかし、2300年前、天皇家などの弥生人が侵入してきて、「自分たちは神の子孫だ」と嘘をついて、神様に代わって縄文日本人に命令し、法令を下すようになった。すなわち侵略者が縄文日本人に「令」を下すようになったのである。
こうなると、「令」はそれまでと同様にありがたくおめでたい言葉だろうか?
その「万葉集」の第1巻の巻頭には支配者である雄略天皇の傲慢なナンパの歌が載っている。
万葉集の雄略天皇の歌:
(ある天気のいい日に雄略天皇が丘の菜畠を通りかかると、美しい娘が籠を持って菜を積んでいた。それでさっそく天皇は声をかけてナンパにかかった。)
「籠を持って菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? 黙っていたらわからないじゃないか。それじゃあ僕のほうから名乗ってやる。家柄と名前を聞いて驚くなよ。この大和の国は全部僕が支配しているんだぞ。」
なんという傲慢でアホな歌か。
他にも雄略天皇の歌はいくつか残っている。
たとえば古事記下巻に載っている雄略天皇の歌:
(雄略天皇が吉野に行幸したとき、吉野川のほとりで美しい少女を見つけたので、さっそく捕らえて性交した。後年、再び吉野に行幸したら、同じ場所でその少女に再会した。それで天皇は床几に坐って琴を弾き、少女に舞を舞わせた。そのときに詠んだ歌。)
「あぐらをかいて座っている神(自分のこと)の御手で琴を弾く。それに合わせて舞う女よ、いつかまた僕が来るときのために、いつまでも若く美しくいてほしいよ。」
なんという自分勝手なヤツか。
同じく古事記下巻の雄略天皇の歌第二弾:
(雄略天皇が、年配だが美しい女性を見つけて詠んだ歌)
「引田の地に、若い栗林があるだろ。あれみたいに、お前が若い時に一緒に寝たかったのに、お前は年老いてしまったなあ。ああ・・・」
お前は猿か。
同じく古事記下巻第三弾:
(雄略天皇が日下部の姫を娶ろうとして河内に行幸したが、姫から使いが来て、恐れ多いですから、姫の方から宮へ参りましょうと言うので、天皇は宮へ戻ることにした。その時に天皇が詠んだ歌。)
「日下部の山と平群の山にはぎっしりと竹が生えているなあ。ああ、姫のところで共寝することができなかったなあ。でも後でしっぽり寝ようよ、僕の恋しい姫よ、ああ・・・。」
もうあきれて言葉がない。
同じく古事記下巻第四弾:
(雄略天皇が春日の姫を娶ろうとして春日に行幸したとき、途中の道で美しい乙女に遇った。しかし乙女は逃げて丘のどこかの穴に隠れてしまった。そこで天皇が詠んだ歌。)
「鉄の鋤(
スキ)がいっぱいあればなあ。あの乙女が隠れている丘を家来たちに片っ端から掘らせて、土を全部はじき飛ばしてやるのに、ああ・・・。」
同じく古事記下巻第五弾:
(雄略天皇が秋津野に行幸して狩をしていた時、床几に座っていると虻に腕を食われた。そこで詠んだ歌。)
「吉野の岳に猪鹿がいると、誰かが大王様(自分のこと)の大前で申し上げた。そこで僕は狩にお出かけになり、獲物が現れるのを待とうと呉座にお座りになったが、すると僕のしろたえの袖の御腕に虻が食いついた。あっと思うとトンボがさっと飛んできて、その虻を食って飛び去った。見てみろ。トンボでさえ僕のために功名を立てようするのだ。そうだ、大和の国をトンボ島と呼ぼう。」
(一部意訳あり(笑))
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こういう傲慢でアホで猿みたいな男が権力を握って平和な縄文日本人を支配してきたのだ。
そのせいで縄文日本人はあれほど平和だったのに、天皇家などの弥生人によって侵略されて弥生日本人へと変貌すると、日本でも暴力や強姦が横行するようになった。
先の山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人は暴力による死亡率が1%代で極めて低かったが、弥生日本人になると暴力による死亡率が海外同様に10%を超えてしまったのである。
ネットに「令和」についてこんな言葉が載っていた。
「命令や法令を下すのは政府や団体、企業、組織だ。神様に代わって彼らが命令・法令を下すのだから、「令和」とは、その命令・法令がどんなに横暴で不公平で無理強いをするものであろうとも、お前たちは和を乱さず、和を保って働けと命じる、という事ですね。」・・・と。
こうしてわれわれ日本人は、傲慢な猿のような天皇などの支配者たちによって、その命令は神様の命令としてありがたく承れと強要された。
古代においても男は防人や兵隊に召集され、女は天皇などに強姦され、過酷な年貢を取り立てられ、以来、20世紀に至っても召集令状の赤紙が来れば、心で泣いても「ありがとうございます。名誉なことです。」と言って出征していった。周りの人たちも心で泣いても「おめでとうございます。」と言って万歳三唱して送り出したのである。
「令和」とは、神様から告げられるのであればありがたく素晴らしいが、人間の支配者から発せられる以上、文字通り「和を命じる」という意味にしかならない。
本当の「和」とは、外から命令されて実現するものではない。外からくるのではダメなのだ。
愛が各人の心の奥から生じるように、「和」もまた各々の人々の心の奥から生じて湧き上がるものであり、こうした人と人とが寄り集まるから真の平和になるのはないか。
神様は人間をそのように創造したのだ。
だから日本人は先の東日本大震災にあっても、家族を失い、家を失い、全てを失った絶望と悲嘆の極限のなかでも、誰かから命令されたわけでもなく、支配者がいたわけでもなく、ひとりひとりがみな自主的に主体的に、克己心を持って、決して暴動を起こさず、暴力も振るわず、互いに労わり合い、励まし合い、助け合って「和」を実現したのだ。
世界中のマスコミがこの日本人の「和」の姿に、「外国ではありえないこと」と言って驚嘆したのだ。
じつはこれは100年前の関東大震災のときも同じだったのであり、同じように世界のマスコミが驚嘆したのである。
そう、縄文日本人のたぐい稀な「和」の精神はわれわれ現代日本人の魂に脈々と生きているのである。
ルック・イーストという言葉は、マレーシアのマハティール首相が1981年に提唱した言葉だが、日本人の倫理観、忠誠心、労働規律、労使間の協調、すなわち日本人の「和」の精神に学ぼうとする思想である。
このルック・イーストの思想は、1990年以降にその日本経済が大低迷時代に突入しても、変わることはなく、現在に足るまでマレーシアをはじめとする世界の人々のこころに息づいている。2014年にはインドのナレンドラ・モディ首相が「ルック・イーストの中心に日本がある」と述べている。
いま世界から期待されている日本人の「和」の精神は、2万年にわたる縄文の精神に他ならない。それは、自主的、主体的に各々の魂から生じ、自然に周囲と協調し、平和を好み、忠誠心を持ち、自然とも調和して生きてきた精神である。
われわれ日本人は、われわれの魂の奥から生じ、ほとばしる、自主的、主体的な「和」の精神を自覚したうえで、この「令和」という元号を受け入れるべきではないだろうか。
死亡 まじめ まじめ まじめ
日本語学者、金田一秀穂さん(右)
4月1日、新元号「令和」が発表されると、すぐにテレビに金田一秀穂さんが出てきて、持ち前の人柄のよさで「令和」を一生懸命よいしょしていた。
金田一さんによると、「令和の『令』というのは古い意味では神様のお告げという意味。そして『皆が仲良く』ということなんだろうと思います。いい言葉なのではないでしょうか。いま調べたら令月というのはおめでたい月だと。全ての物事を行うのによい月だと。だから始まりのとってもいい月なんだよということですね。神様に代わって自分たちが命令、法令を下すということですね。だから、いい月、とてもおめでたいのです。風が穏やかで和やかであると。とても季節感あふれる言葉とでも言えばいいでしょうか。」
金田一秀穂さんは祖父の金田一京助、父の金田一春彦という二大学者の七光りで学者になれたと言われるが、文筆界や芸能界はそうそう甘いところではないので、視聴率が取れなければすぐに消えてしまうものだ。彼がずっと出ているのは彼の人柄のよさが人を惹きつけるからだと思う。
しかし新元号「令和」については、
金田一先生、それ、本当にそうですか?(笑)
たしかに新元号を「万葉集」から採ったこと、また「和」という語を持ってきたことはじつに素晴らしいと思う。
万葉集は、この日本列島で2万年にわたって平和で愛に溢れた文化を築いてきた縄文日本人から生まれた歌と、2300年前にやって来て日本を侵略した天皇家や秦氏などの弥生人の歌との、両方がコラボして掲載されている。世界でも稀な偉大な歌集である。
そして縄文日本人の精神こそは「和」の精神である。山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人の暴力による死亡率はわずか1%代。海外の諸民族はいずれも10%を超えているので、縄文日本人は世界で稀にみる平和な民族であった。縄文日本人は「和」を好み、互いに争わず、互いに助け合って2万年にわたる平和な社会を築いてきたのだ。
じつに新元号を「万葉集」から採ったこと、そして「和」という語を持ってきたことは本当に素晴らしいのだ。
しかし「令」のほうはどうだろうか。
たしかに「令」というのはもともと「神様のお告げ」という意味で、だからもともとは「ありがたい」言葉であった。だから何を行うにも「おめでたい」「よい」言葉であった。
しかし、2300年前、天皇家などの弥生人が侵入してきて、「自分たちは神の子孫だ」と嘘をついて、神様に代わって縄文日本人に命令し、法令を下すようになった。すなわち侵略者が縄文日本人に「令」を下すようになったのである。
こうなると、「令」はそれまでと同様にありがたくおめでたい言葉だろうか?
その「万葉集」の第1巻の巻頭には支配者である雄略天皇の傲慢なナンパの歌が載っている。
万葉集の雄略天皇の歌:
(ある天気のいい日に雄略天皇が丘の菜畠を通りかかると、美しい娘が籠を持って菜を積んでいた。それでさっそく天皇は声をかけてナンパにかかった。)
「籠を持って菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? 黙っていたらわからないじゃないか。それじゃあ僕のほうから名乗ってやる。家柄と名前を聞いて驚くなよ。この大和の国は全部僕が支配しているんだぞ。」
なんという傲慢でアホな歌か。
他にも雄略天皇の歌はいくつか残っている。
たとえば古事記下巻に載っている雄略天皇の歌:
(雄略天皇が吉野に行幸したとき、吉野川のほとりで美しい少女を見つけたので、さっそく捕らえて性交した。後年、再び吉野に行幸したら、同じ場所でその少女に再会した。それで天皇は床几に坐って琴を弾き、少女に舞を舞わせた。そのときに詠んだ歌。)
「あぐらをかいて座っている神(自分のこと)の御手で琴を弾く。それに合わせて舞う女よ、いつかまた僕が来るときのために、いつまでも若く美しくいてほしいよ。」
なんという自分勝手なヤツか。
同じく古事記下巻の雄略天皇の歌第二弾:
(雄略天皇が、年配だが美しい女性を見つけて詠んだ歌)
「引田の地に、若い栗林があるだろ。あれみたいに、お前が若い時に一緒に寝たかったのに、お前は年老いてしまったなあ。ああ・・・」
お前は猿か。
同じく古事記下巻第三弾:
(雄略天皇が日下部の姫を娶ろうとして河内に行幸したが、姫から使いが来て、恐れ多いですから、姫の方から宮へ参りましょうと言うので、天皇は宮へ戻ることにした。その時に天皇が詠んだ歌。)
「日下部の山と平群の山にはぎっしりと竹が生えているなあ。ああ、姫のところで共寝することができなかったなあ。でも後でしっぽり寝ようよ、僕の恋しい姫よ、ああ・・・。」
もうあきれて言葉がない。
同じく古事記下巻第四弾:
(雄略天皇が春日の姫を娶ろうとして春日に行幸したとき、途中の道で美しい乙女に遇った。しかし乙女は逃げて丘のどこかの穴に隠れてしまった。そこで天皇が詠んだ歌。)
「鉄の鋤(
スキ)がいっぱいあればなあ。あの乙女が隠れている丘を家来たちに片っ端から掘らせて、土を全部はじき飛ばしてやるのに、ああ・・・。」
同じく古事記下巻第五弾:
(雄略天皇が秋津野に行幸して狩をしていた時、床几に座っていると虻に腕を食われた。そこで詠んだ歌。)
「吉野の岳に猪鹿がいると、誰かが大王様(自分のこと)の大前で申し上げた。そこで僕は狩にお出かけになり、獲物が現れるのを待とうと呉座にお座りになったが、すると僕のしろたえの袖の御腕に虻が食いついた。あっと思うとトンボがさっと飛んできて、その虻を食って飛び去った。見てみろ。トンボでさえ僕のために功名を立てようするのだ。そうだ、大和の国をトンボ島と呼ぼう。」
(一部意訳あり(笑))
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう傲慢でアホで猿みたいな男が権力を握って平和な縄文日本人を支配してきたのだ。
そのせいで縄文日本人はあれほど平和だったのに、天皇家などの弥生人によって侵略されて弥生日本人へと変貌すると、日本でも暴力や強姦が横行するようになった。
先の山口大学と岡山大学の研究によると、縄文日本人は暴力による死亡率が1%代で極めて低かったが、弥生日本人になると暴力による死亡率が海外同様に10%を超えてしまったのである。
ネットに「令和」についてこんな言葉が載っていた。
「命令や法令を下すのは政府や団体、企業、組織だ。神様に代わって彼らが命令・法令を下すのだから、「令和」とは、その命令・法令がどんなに横暴で不公平で無理強いをするものであろうとも、お前たちは和を乱さず、和を保って働けと命じる、という事ですね。」・・・と。
こうしてわれわれ日本人は、傲慢な猿のような天皇などの支配者たちによって、その命令は神様の命令としてありがたく承れと強要された。
古代においても男は防人や兵隊に召集され、女は天皇などに強姦され、過酷な年貢を取り立てられ、以来、20世紀に至っても召集令状の赤紙が来れば、心で泣いても「ありがとうございます。名誉なことです。」と言って出征していった。周りの人たちも心で泣いても「おめでとうございます。」と言って万歳三唱して送り出したのである。
「令和」とは、神様から告げられるのであればありがたく素晴らしいが、人間の支配者から発せられる以上、文字通り「和を命じる」という意味にしかならない。
本当の「和」とは、外から命令されて実現するものではない。外からくるのではダメなのだ。
愛が各人の心の奥から生じるように、「和」もまた各々の人々の心の奥から生じて湧き上がるものであり、こうした人と人とが寄り集まるから真の平和になるのはないか。
神様は人間をそのように創造したのだ。
だから日本人は先の東日本大震災にあっても、家族を失い、家を失い、全てを失った絶望と悲嘆の極限のなかでも、誰かから命令されたわけでもなく、支配者がいたわけでもなく、ひとりひとりがみな自主的に主体的に、克己心を持って、決して暴動を起こさず、暴力も振るわず、互いに労わり合い、励まし合い、助け合って「和」を実現したのだ。
世界中のマスコミがこの日本人の「和」の姿に、「外国ではありえないこと」と言って驚嘆したのだ。
じつはこれは100年前の関東大震災のときも同じだったのであり、同じように世界のマスコミが驚嘆したのである。
そう、縄文日本人のたぐい稀な「和」の精神はわれわれ現代日本人の魂に脈々と生きているのである。
ルック・イーストという言葉は、マレーシアのマハティール首相が1981年に提唱した言葉だが、日本人の倫理観、忠誠心、労働規律、労使間の協調、すなわち日本人の「和」の精神に学ぼうとする思想である。
このルック・イーストの思想は、1990年以降にその日本経済が大低迷時代に突入しても、変わることはなく、現在に足るまでマレーシアをはじめとする世界の人々のこころに息づいている。2014年にはインドのナレンドラ・モディ首相が「ルック・イーストの中心に日本がある」と述べている。
いま世界から期待されている日本人の「和」の精神は、2万年にわたる縄文の精神に他ならない。それは、自主的、主体的に各々の魂から生じ、自然に周囲と協調し、平和を好み、忠誠心を持ち、自然とも調和して生きてきた精神である。
われわれ日本人は、われわれの魂の奥から生じ、ほとばしる、自主的、主体的な「和」の精神を自覚したうえで、この「令和」という元号を受け入れるべきではないだろうか。
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