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このお話は、、、、の続きです。
「じゃあ…、飲みましょう。今日という日の味を忘れないように…」
俺たちは商店街を少し歩いて見つけた喫茶店に入った。会話は少しも盛り上がらない。そんなにすぐに打ち解けられるはずはなくて、途切れ途切れに言葉を交わすだけだった。だが、それで良かった。俺は二人に同じ時間を共有してほしかった。離れている心は、その積み重ねが近付けていくのだと思う。この時、本当は飲めないのに格好つけて頼んだブラックコーヒーは、恐ろしいほど苦くて、段違いに温かかった。俺はその苦さを、その温かさを、そんなこの日の味を、決して忘れることはない。
喫茶店を出ると、霙さんは軽く頭を下げて駅の方向へ歩いていった。目の前からすぐに消えてしまったお義父さんとどこかで待ち合わせをしていたのかもしれない。後をつけてそれを探るようなことはしないし、どこへ行くのか尋ねもしなかった。俺たちは近くのコインパーキングに停めた車に戻り、家路に就いた。抑揚のない真っ直ぐな道が眠りに誘(いざな)ってくる。時間はまだ20時を過ぎたばかりだったが、瞼(まぶた)が重くなってきた。張り詰めていた空気から解放され、心が緩んだのかもしれない。
「清掃氏、札幌まで運転大丈夫? 無理しないで休んでいってもいいよ」
「危ないなって感じたら仮眠するよ」
「危ないって感じるまで運転しちゃダメだよ。その前に休まなきゃ…」
「そうだよね…。せっかく旭川まで来たんだし、明日は休みだから泊まっていこうか? 旭山動物園とか青い池に寄って帰るのもいいかもね」
「うん、いいね。そうしよ! 駅の方に戻れば空いているホテルがあると思うよ」
「分かった、戻るね」
俺は道路が少し広くなっている場所を見つけて車を転回させた。走ってきた道を戻っている道中、妻が携帯電話で空いているホテルを見つけてくれた。思っていたよりも高かったが、安全を買ったのだと思えば大した出費ではない。チェックインを済ませた後、俺は展望大浴場へ向かい、身体を伸ばして湯に浸かった。随分と長い一日だったな…、霙さんは結婚式に来てくれるのかな…。部屋に戻ると、妻はもう目を閉じていた。俺はそっとベッドに入り、小さな声で「おやすみ」と囁き、ルームライトを消した。
「おやすみ…。清掃氏、今日は私と妹の為にありがとう」
「起こしちゃった? ごめんね…」
「ううん、起きてた」
「…色んなことがあった一日だったね。妹子は強くなったなって感じたよ。出会った頃を思うと、想像がつかない感じ…」
「強くなんてないよ。でも、前を向けるようになった。それはやっぱり清掃氏さんと出会えたからかな」
「なっ、何故、さん付け?」
「あはは、あの頃を思い出して、ちょっと言ってみた。まさか結婚することになるなんて考えもしなかったけど、最初に会った日から匂いが好きだった」
「にっ、匂い? 加齢臭はしなかった?」
「そういう匂いじゃないよ。手の匂いも好きだけど…」
「俺はね…、最初から思っていたよ。恋愛感情とかじゃなくて、この人の力になりたいなって…。たぶん…、妹子が霙さんを思う気持ちと同じじゃないかな。人間が人間を思う気持ちってやつ…」
「私のこと、思ってくれてありがとう。私も気付いたら想ってたよ。ずっとこの人と一緒にいたいって…」
「妹子…」
「ねっ、ねぇ…、私たちって…」
妻が言いたいことはすぐに分かった。俺たちは妻が高校を卒業してすぐに入籍し、同棲を始めてもう4年が経とうとしているが、キスをしても、隣で寝ていても、それ以上のことは何もしていなかった。そしてそれは、妻に魅力を感じなかったからではないし、俺の心身に何か問題があったからでもない。はっきりと言えば、我慢をしていた。妻が大学を卒業するまでは…、そんな思いも心のどこかにあった。もちろん、そのような綺麗事だけではなくて、過去の経験(【】参照)が自分を臆病にさせていたことも否定しない。何もしないことで妻に疑念や不安を与えてしまっていたとしたら、それは本当に申し訳なかったと思う。
「もうすぐ結婚式だもんね。確認しておきたいよね…。あっ、いや…、確認ていう言い方はおかしいか…」
「……………」
「怖くない? 大丈夫?」
「うん…、大丈夫…。嬉しい…」
「妹子…、愛してるよ」
「私も……」
この夜、俺は初めて妻を抱いた。嬉しい時間、楽しい時間、悲しい時間、切ない時間、これからもたくさんの時間を共にしていく。どんな時も俺を頼ってくれていい。身体は繋がっていてもそうじゃなくても、この心はいつでも、そしてずっとキミの隣にいる。
それから半月後の結婚式…、霙さんの姿を探す余裕はなかった。極度の緊張と照れくささで、祭壇の前に立つまでの記憶はほとんどない。俺はどうやってここへ来たんだ? このポケットチーフは誰が入れてくれたんだ? 脚の震えを必死で隠しながら焦点の定まらない目でただ前だけを見ていると、自分もついさっき通ったであろう扉が静かに開き、妻がバージンロードを歩いてきた。なんて綺麗なんだろう…。どうしてこんなに愛おしいんだろう…。
んっ?!、隣を歩いているのは…。妻をエスコートしているのは勤務先の会長、北大路会長(【】参照)だった。俺はその鋭い眼光を受けて我に返った。なるほど…、父親がいない場合はこういうのもありなのか…。何も聞かされていなかった俺は、たじろぐばかりだった。後に聞いた話では、遠方で出席できなかった婆さんたちの入れ知恵、いや、計らいだったらしい。
式は粛々と進み、心拍数が落ち着いてきた頃、静寂に包まれている教会に司会者の高らかな声が響いた。
「それでは、誓いのキスを…」
あっ、いや…、そんなに大きな声で言わなくても分かっていますよ…。でも、ここでキスをしろと言われても…。だって、見ている人がたくさんいるじゃないですか…。妻の顔をちらりと見ると、もう目を瞑(つむ)っていた。えっ、早くない? ねぇ、恥ずかしくないの? あっ、いや…、すみません、女心が分からなくて…。分かりました、しますよ。手の甲でいいですか? それとも少し頑張っておでこ? ううぅ、もう時間がない…。ええぃ、やっちゃえ俺!
11秒のキスは長かったようで、重ねた唇を離すと教会に拍手が沸き起こった。どうして11秒だったのか…、特
深い意味はない。俺と妻の誕生日が11日なので、頭の中にハートを11個浮かべたのだ。今振り返ると、どうせなら足して22秒にすれば、語呂合わせとしても良かったと思う。いや、さすがにそれは長過ぎか…。
式を終えて、教会の出口へ向かって万雷の拍手の中を歩いていると、妻が組んでいる腕をくいくいと引き寄せた。
「どうしたの?」
「来てくれた…」
「えっ…」
妻の視線を追うと、そこには霙さんがいた。手を打ち合わせて、俺たちを祝福してくれている。ありがとう…、そう呟かずにはいられなかった。妻の思いを受け取ってくれたことがとにかく嬉しい。披露宴の時にしっかりとお礼を言おう、家にも遊びに来てもらおう、そう思った。だが、お義母さんの隣に用意した彼女の席はすっぽりと空いたままだった。そこへ座る勇気までは持てなかったのだろう。もちろん、それを責めたりはしない。あるのは俺たちの門出を祝ってくれたことへの感謝だけだ。
この日、俺たちは山下公園の向かいにあるホテルに泊まった。小さなベランダに出て、ベイブリッジを背景して何度もキスをした。この人ともっと幸せになりたい…、いくつになっても手を繋いで歩きたい…、その思いは今も少しも変わっていない。
翌朝、ルームサービスの朝食を食べていると、お義母さんが部屋を訪ねてきた。
「妹子、清掃氏さん、おはよう」
「おはようございます」
「妹子、幸せそうな顔をしているね。お母さんも本当に嬉しいよ。清掃氏さん、ありがとう」
「あっ、いえ…、こちらこそありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
「昨日…、教会へ入る前に霙さんと会いました。控え室に来て下さったんです。しっかりしたお嬢さんですね」
「お母さん、何か話したの?」
「ううん…、挨拶を交わしただけ…。おめでとうございますって喜んでくれていたよ。披露宴に出られないことは謝っておいて下さいって…」
「来てくれただけで嬉しかった…。お母さん、私たちが霙さんに会いに行く前に手紙を送ったんでしょ? どんなことを書いたの?」
「普通の手紙だよ…。私が書いたのは、真っすぐに成長していく妹子の姿に救われたってこと…、人間は人間に救われるってこと…」
「お母さん…」
「…霙さんはお義母さんの手紙のおかげで会いに来られたと言っていました。縁を繋いでくれたのはお義母さんだと思っています。本当にありがとうございました」
「いえ、私は何も…。そうそう、二人に渡すものがあります。霙さんから預かっている手紙です。あの後、お返事をいただいて、結婚式の後に渡して下さいと中に手紙が入っていました」
清掃氏さん、妹子さん、ご結婚おめでとうございます。
私はやっぱり捻くれていて、結婚式という幸せが溢れている場所へ行く勇気が持てるか分からないので、お母様に手紙を届けておきます。
誤解はしないで下さい。お二人の晴れの日を祝えないというわけじゃありません。認めたくないけど、嫉妬しているんだと思います。育った環境は似ていて、生活が苦しかったのも同じはずなのに、どうしてこんなに差がついちゃったんだろうって…。育ててくれた人のせいですか? それとも出会ってきた人たちのせいですか? 違いますよね…、私だってそれくらいは分かっています。いつもこうやって人のせいにしているからですよね。私はそんな自分が嫌でたまりません。でも、胸の奥まで染み付いて、塗り潰されてしまった心の色は簡単には変えられないんです。人は口で言うほど簡単には変われないんです。
お母様からいただいたお手紙には、絶望の中で見つめ続けた光のことが綴られていました。家族の幸せを壊してしまったのは私たちのお父さんなのに、その人を責める言葉は一つもなくて、それどころか自分を強くしてくれた人だと書いてあったことが今も胸に残っています。お父さんのせいにしちゃえばいいのに…、そうすれば自分の心を傷つけなくて済むのに…、 どうして…。私はお母様のお気持ちがなかなか分かりませんでした。でも、何度も何度もお手紙を読み返して、『成長していく光』という言葉に目が留まった時、その理由が分かった気がしました。人のせいにしていると、自分だけじゃなくてその光も成長できなくなってしまうということを、お母様は自分自身に言い聞かせていたのだと思います。どんどん大きくなっていく光が生きる希望にもなったはずです。光としか書いてありませんでしたが、それが妹子さんのことだということはすぐに分かりました。
私にはそんな光はどこにもありません。でも、お母様とお互いを照らし合うお二人に教わりました。光がないなら私自身が光を感じてもらえる人間になればいいんですよね。眩しい光にはなれません。小さくて今にも消えてしまいそうな光かもしれません。今すぐには輝けません。それでも、いつか誰かを照らしてあげられる人間になりたいです。だから、もう人のせいにはしません。人のせいにしているうちは何も変わりませんよね…。
妹子さん…、ううん、お姉さん…、そして清掃氏さん、会いに来て下さって本当にありがとうございました。私にこんなに素敵なお姉さんがいて、そのお姉さんが素敵な人と結婚するって知って、すごく嬉しかったです。これから自分に負けそうになった時は、ちょっと苦かったカフェラテの味を思い出して、少しでもお姉さんに近付けるように頑張ります。またいつか三人でお話しをさせて下さい。お二人がずっとずっと幸せでいられますように…。
霙(みぞれ)
妻の頬を涙が滴り落ちた。人は思い思われ、照らし照らされ、救い救われ、生きている。霙さん…、
付いていないんだね、俺はキミに光を感じたよ。もう…、輝いているよ。
「俺たち…、霙さんのこと、少しは救えたんですかね…」
「少しじゃないと思います。その時は少しだったとしても、その少しが多くを変えていくんです。妹子が少しだけやってみると言って始めた清掃の仕事がこの子の多くを変えたように、二人が霙さんと会っていた少しの時間が彼女の未来を大きく変え始めている気がします」
「そうだと嬉しいし、俺はそう信じます」
「はい、きっとまた言葉を交わせる日が来ますよ。三人が笑顔で話している姿がはっきりと胸に浮かびます」
これから時が流れ、再び言葉を交わしたのが病院のベッドの上だった(【】参照)。
「お父さん!」
「おぉ、娘子、いつも元気でいいね!」
「旭川のお姉ちゃんがお見舞いに来てくれたよ」
「んっ…? キミは確か…」
「お義兄さん、お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「えっと…、えぇっと…、霙さん!」
「はい、霙です。覚えていて下さってありがとうございます」
「いや、すぐに思い出せなくてごめん…」
「気になさらないで下さい。一度しかお話しをしたことがないんですから…」
「そうだけど、大切な義妹(いもうと)だからさ」
「お義兄さん…。手術が無事に成功して本当に良かったです。姉から連絡をもらった時は驚きました。もっと早く来たかったんですけど、仕事が休めなくて…」
「いや、来てくれただけで嬉しい。結婚式の時も同じ…。本当にありがとう!」
お義兄さん…、何度も耳に響いたその言葉と時折見せる彼女の笑顔に俺は救われた気がした。救おうとしていた彼女に、俺たちが救われたのかもしれない。他の誰かを救うということは、自分自身を救うことでもあるのだろう。人間には気付く能力がある。困難に立ち向かっている人、悲しみを抱えている人、苦しみと闘っている人、俺はそんな人たちを見て何も感じない人間にはなりたくない。人間が人間を思う気持ちとは、人を慈しみ、その感情を汲み取り、寄り添おうとする心である。
人間が人間を思う気持ち(完)
文:清掃氏 絵:清掃氏・
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