たかが審判
シーン
だなぁと思いました
いつもありがとうございます✲*゚
審判の常識って世間の常識と食い違ってることが多いよね
活動が主に土日となる為、なかなか息子の試合を観戦に行けてないが、まあ仕方ない。
後輩コーチ達が中心となり指導をしているが、前年度に比べて活動はしやすく、私自身が腰軽く雑務を引き受けているので後輩コーチも気を使ってくれている。
「私コーチ、たまには息子の試合でも見に行って来たらいいですよ!」
よく勧められるが、実は最近息子から煙たがられて試合を観戦するのを控えているのも一理あり。
まあ息子も年頃だから仕方ない。
私も口出しすることがすっかりなくなった。
それでもやはり、たまには試合を見に行きたい。
どんなプレーをするようになったか見てみたい。
今の少年団の子供達のプレーを見ていると、昔の息子を思い出す。
今の少年団の子供達より比べ全然下手だったが、それでも楽しそうにサッカーをしていた。
昔の息子と今の子供達をダブらせながら、懐かし思いに更け審判をしている私である。
審判 あなたと、いっしょに、きれいになりたい。
してもらって嬉しかったことって何?
して貰って 嬉しかった事、、、
結婚してから、数えきれない程あります。 今も ほぼ毎日 何かしら 私の喜ぶを事をしてくれる彼(たまには喧嘩もするけどね)
で、一番うれしかった事は やっぱり、私を嫁に貰った上 今日まで捨てずにいる事( 冗談ごと、と思うかもしれませんが、私は
周囲から、そもそも結婚なんて 出来ないだろう(相手が居ない) と思われていたし、今の彼についても、絶対遊ばれてるし、じき 捨てられる と言われまくり 自分でも 「そうだろうな」 と思っていたので、これは、正直 驚きました。ありがとう 以外、何の言葉もありません)
で、その次に嬉しかった事 と言うか、特筆すべき事は、
私の父親が泣く くらい 喜ぶ事をしてくれた事
50年生きて、私は、自分の親を 何万回怒らせたか不明ですが、喜ばせた事は ただの一度もありませんでした。
バカで不細工だったせいで、親には、恥ばかりかかせました。
一回目に結婚した婿は、東大主席卒と言う 超エリートだったけれど、その分、彼と、彼の実家の態度が
私の親に尊大で、
うちのに親は、悔しい思いばかりをさせました
「お前は、貰い手があったから、喜んで、男と乳繰り合って ええ気なモンやろうけど、婿にもその実家からもバカにされる
我々の身にも なってみぃ!! お前に大した学歴も職もないから、こんな事になるんやないか!
それでも、お前は、平気の屁の河童で、今に子供でも産むんやろ!
顔があいつ(婿)に似て、頭の中身がお前そっくり (要するに、バカで不細工)の孫なんか、見たないわ!!」
と、何度 怒鳴られたか 解りません。
そもそも、結婚前から、エリートだけれど貧乏 な彼と結婚する事は、我が家とは、家の格が釣り合わないと、親は不満でした。
折しも、同じような時期に似たような年令の女性が、社宅暮らしの分際で(親は教職員) 皇室に嫁いだ と言うニュースが
日本中を駆け巡った事もあり 結婚式前日の夜、母親に
「他所のしっかりしたお子さんは、自宅さえない親でも、あの快挙や!
それに引き換え、てめえは、自宅のある親に、どんだけ恥かかせんねん。 あんな、クソど田舎の百姓にバカにされて!
うりゃぁーーーーーーーー」
と掴みかかられました。
日頃から、殴る蹴る、物をぶつけるは当たり前とはいえ、いくらブスでも、流石に、一生に一度(結果的に3回やっちゃったけど)の
結婚式で、顔にあざとか、目が内出血で真っ赤とか言う敗戦ボクサー状態での 記念撮影は 避けたかったので 誠に勝手ながら、
飛び掛かる母親の両腕を、自分の手で 制してしまいました。
(いつもは、だいたい、よけるか、気が済むまで 殴らせてました)
私の母親は、戦時中に成長期を迎えた、万年欠食児童だったせいか、
とても血管がもろいらしく、ちょっとした事で すぐ青あざ が できてしまう体質の人でした。
で、その時も、私が 母の手首のちょっと下あたりを、グっと握って 動きを制したため、そこが、あざになりました。
この時の事を母は いつまでも覚えていて、後、私達が離婚した際も、そのずっと後も、何かあるたびに
「結婚式の前にはな!、普通の子供は、親に これまでの礼 を言うて、出て行くもんや
それを、てめぇは、親に暴力なんか、ふるたやろ!!
そやから、離婚になったんや!!
やっぱりな、人の道に外れるような事 は、するもんやないわ! ざまぁみろ!バチ当たったぁーるねん 」
と よく言われました。 「正当防衛」が、いつの間にか「暴力」にすり替わっているのには閉口するけれど、とにかく、私に、輝かしい学歴が無い事で、親が惨めな思いをし 家庭内が穏やかではなかったのは事実。
そして、すぐ離婚したけれど、2番目の夫も、親とはそりが悪かった。
今の彼も、貧乏だし 職業も兵隊 という事で、親の機嫌は、超絶悪かったのですが、(が、私の婿と言うのは、親の配偶者ではないゆえ、そう文句ばかり云われてもなぁ、、と言う気はする。もちろん、家族に迷惑をかけたいとは思わないけれど)
が、彼は実に温厚で親切な人ゆえ、親の関心を買いたいという下心等なしに、いつも、純粋に親に良くしてくれた(と思います)
軍人一家は、数年おきに、引っ越しをするのが常ですが、我々も結婚したハワイから、あちこちを転々とし、そのたび、
私の親が そこを訪ねて来た際には、いつも、出来る範囲で、親が一番喜びそうな事をしてくれました。
それでも、、、
連れて行く 観光地やレストラン等、東京で割と豊に暮らしている人間にとっては (今、日本は世界一安全で快適に暮らせる国かもしれません。)
「なーんや、しょーもない。この程度か」
と思う事も多かったらしく、影で 私に 随分文句を言いましたが、私は彼に この親の本音を伝えた事はありません。
自分自身で、良かれと思い これまで親にやった事で、
「何やねん、こんなもの!」
と 目の前で、ゴミ箱に捨てらた物とか、
「今すぐ、出ていけ!」
「土下座しろ!」
等言われて 良い気分だった事がないので、
自分が やられて嫌だった事は、人にはやるまいと言う考えから、彼に、親の本音は告げませんでした。
が、不平不満だらけの親が、一度だけ喜んだ例外 がありました。
それは、12、3年前の初夏、親をニューヨークのホテルに泊め、観光案内した時の事です。
一応、名所と言われる所を見せて回り、美味しいと評判のレストランに連れて行き その際は、
文句もあるし、「まあまあやね」 と言う評価の物もあって、ここまではいつも通り だったのですが、この時は、
旅の最後に私の旦那が、私の父親に
ちょっと早めの誕生日プレゼントを用意してくれました。
当時、土曜も出勤だった彼は、仕事を終えると、隣の州から ニューヨークにかけ戻り、親と我々を、
手配した車に乗せてくれました。
普通のタクシーと違い、かなり良い車を呼んでくれました。
私の父親、実は、筋金入りの、野球好き。特に、大リーグのニューヨーク ヤンキーズに、目がなく、
しかも、日本の選手では、巨人時代から、大の松井秀喜選手好き。
当時、松井選手は、ニューヨーク ヤンキーズに移籍し、一軍で活躍していました。
父は、毎シーズン、ヤンキーズの試合は生中継で観、そのため、時には昼夜逆転するような生活をしていました。
もちろん 録画もしているのですが、やはり、同時に見ないと、気が済まない。
けれど 好ゲームなら その録画を何度も再生するゆえ、録画にも意味がある。
そういう ハードコアなファンでしたが、日本を含め、球場へゲーム観戦に行った事は ありません。
母親が、こういうスポーツには 一切興味が無い人なので、
興味のない人間にとって、何時間も 暑い中、寒い中 スタジアムの硬いシートで 尻を温め続けるのは 拷問以外何でもありません。
だから、父は 母に遠慮もしていたのでしょう。(我が家、圧倒的な かかあ天下家庭)
実際、アメフトの大ファンである 旦那の義父が時々、スタジアムへ観戦に行く話をするのを聞いた母親は、
「ここの家は、男ばかりが、威張り腐って、ゲームやなんやと 好き放題。 女はみな、飼い犬か?
ブスでもてへん女は、洋の東西問わず、男の顔色を伺うようにして、ようやく、お傍に置いて貰えると、、。情けないこっちゃ」
と 呆れ顔をしていました。
確かに、義母は、物分かりは良いけど、およそ モテ系女子ではない と言う感じの人だし、義父もワンマンな感じがします。
それに比べて、母は、若い頃から、モテまくりだったので、男の機嫌を取る と言う事は無かったんだと思います。
そう言う事情を知った彼は、(母の苦言ではなく、父が 野球好きなのに、ゲーム観戦の経験0 と言う事実)
ヤンキーズと、当時 イチロー選手が所属していた、シアトル マリナーズの試合の、かなりいい席を、父の為に買ってくれました。
もちろん、父はヤンキーズスタジアムにも、行った事がない。
これは、さぞかし、喜ぶんじゃないか
と言う事で、その日、泊まったホテルをチェックアウトした後、自宅に戻る前
「ちょっと、離れた場所で、ランチをしてから 帰る」
と言って、2人を手配した車に乗せました。
が、父親は、私と違い、旧制中学や名門高を出た秀才ゆえか、土地勘その他も、とても鋭い人でした。
初めて 訪れた ニューヨークにも関わらず
ホテルを出た後、車が北上し、治安が悪い事で有名な、ブロンクス地区(ヤンキースタジアムはこの地区にある)
へ向かいつつあるのを、
車窓からの景色が次第に すさんで行くのと同時に、体内コンパス(方向感覚)で、がっちり把握したらしく、
「おい!この車、どっち向いて走ってるねん! おかしな方向へ行っとるやないけ! これ、ブロンクスの方とちゃうんかい!?
そんな場所で、昼飯食う はずが無いやろ!?」
と、色めきたちました。
私は、球場に着くまで、「お楽しみ」 を 隠しておきたい一心で、
「そうかな?」
ととぼけていたのですが、これが、裏目に出ました。
とうとう、父親は、己の側にある 車のドアロックを解除して、
「おい、次の信号待ちで わしは、飛び降りるぞ! これ、絶対、、ぼったくりタクシーや!
このままでは、裏道に引きずり込まれて、身ぐるみはいだ上に、撃ち殺されるぞ
お前が、バカやから、こんな事になるんやろ!
なんで、車を、ホテルで手配せーへんかったんや! わしは おかしいと思うてたんや!
どこの、車を 呼んだんや!! これ、強盗やないけ!!アホンダラ!!」
と、悲鳴に近い絶叫を挙げ、母親も、それに呼応すると
「てめえ、何ちゅう事を してくれんねん! えらい事やがな!!
ぼんくらのせいで、こっちゃ、殺されてまうわ!
人殺しーーーーーーーーーー
アホ!!
おい、止めろ、車止めろ!
お前! 言えよ! 停めろって!!
STOP!! PLEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEASE。
お前!!、その運転手、どつけ!!」
と、後部座席が大騒ぎに、、、、
さすがの、旦那もコトの次第に 気づきます。
助手席から
「どうした?」
いや、、これこれ しかじかでさ、、
もう、「殺される」 って、飛び降りかねない勢いなんよ、、
「、、、、何だかなぁ、、、
もうちょっとで 到着なんやがな、、
ほな、しゃーないな、」
そう言うと、旦那は、ヤンキーズのゲームチケットを、出して、父に見せました。
「「きっぷ」です」
「え???何?!」
パニクっていた 両親は、
ヤンキーズ スタジアム、ゲーム と書いた チケットを見ても、一瞬 事態が呑み込めなかったようで、呆然。
その時、ちょうど、車が、スタジアム前に 滑り込みました。
テレビでお馴染みの、円形球場を真近に見た 父親は、言葉を失っていました。
「ご高齢の方ですゆえ、できる
け、ゲート入り口まで、近づいてから 停めますからね、、」
手配した運転手は、当然の事ながら、追いはぎでも何でもない 普通に親切なおっさんで、
ゆっくり、車を走らせながら、ゲートのほん近くで、
「ここで、よろしいですか? では、お帰りの際も、同じ場所で、ピックアップいたします。お電話くださいね。どうか、お楽しみください」
と、礼儀正しく にこやかに去って行った。まさか 己が もう少しで ブン殴られる運命だったとは 露ほども知らずに、、、
ようやく、事の次第が飲み込めた父は、
旦那の手を 己の両の手で、握りしめると、涙ぐんでこう言った。
「ありがとう! いやーありがとう!!〇〇君、ほんまに、ありがとう!!
もう、わし、生きてる間に、こんな事を、人からして貰えるなんて、思った事もなかったわ、、、
わしの為になぁ、、こんな手配してくれて、、、君だけやで、わしが喜ぶ事をしてくれた身内わ、、、
こんな、碧い目した君が、僕の 息子(義理やけど)やねんな、、、
もう、信じられへんわ、、
わしは、もう、今日、今、ここで死んでも かまわへんわ、、ほんま、ありがとうなあ、」
そう言うと、さっきから握ったままの彼の手を 滅茶苦茶に振り回した。カクテルを拵える、バーテンダーのようだった。
旦那は大阪弁はおろか、日本語が ほぼ解らない人ゆえ、跡形が残るほど握った手を振り回した挙句(ガリガリだし爺のくせに、結構怪力の父) 果ては、上から鼻水まで、落とさ、困惑気味だったが、片言の日本語で、
「オトーサン 、ダイジョウブ。。。さぁ、ゲーム イキマショー」
「ワーン」
それでも、父は しばらく、握りしめた手を離さなかった。
父は、金持ちとは言え、だいぶ没落した家系の長男に生まれ、両親も結構厳しかったゆえ、あまり、甘やかされた事がない。
その上、世は戦争、不況と、荒れ放題。
ただ、放っておいても、勉強は出来る人だったゆえ、私のように、親から「勉強せい!」と言われた事はないらしい。
けれど、小遣いナシ(子供時代から)、最終学歴は、思ったほど伸びず親に失望され、大恋愛の末に射止めた 評判の美女は
貧乏家庭の気の強い女だったため、その事でも、親から、だいぶ、叱責されたらしい。
以後は、親と嫁の間の板挟みで、マスオさん状態となり、生まれて来た子供は、ブスで大飯ぐらいの、パッパラ、だった、。あまり 幸福なプライベートライフとは言えない。 一方の仕事も官僚をやめ、脱サラもした後は、自営業で苦労のし通し、、良い人生だったと言えるかどうか?、、特に私の存在は、頭痛の種だったらしく
ある日、つくづく 私を見ながら、
「ワシが男やったら、お前みたいな(女)とは、結婚 したないわ」
と しみじみ 言った事もある。
その時私は、「いや、お父さんは、男です(もしも男やったらと言う事に対して)」 と答えるのがやっとでした。
深い真剣な 返答をすると、お互いが 逃げ場を失い 修復不能なほど 気まずい状態になる気がした。
私が、大学受験に失敗し、第三志望に入学の際は、家が割れる程の喧嘩となり、父が、怒り狂う母親に
「こんな、バカでも、殺すわけにいかんねん」 と泣き叫んだ事もあるわけで、、、
男前で、秀才で、家柄もそこそこだったのに、思えば、辛い事だらけの人生だったんじゃないか、、、
特に後半戦の苦悩の元は、私が持ちこんだ可能性大なわけだ。
だから、父がこんなに、喜ぶ姿を 私は見た事がなかった。後にも先にも、この時一回きりだったと思う。
父は他人の前で 感情を出すようなタイプ
はない。ゆえ 水っ鼻を垂らして、娘婿の前で、泣くなんて言うのは、余程嬉しかったに違いない。ちなみに、私の結婚式でも、父は泣いた事など一度もない、
それよりも、私の不手際とか、バカ面を見るたび、
「アホ、ボケ!」
「皆さまに、土下座しろ!」
などと、喉●んこ 丸だして、吠え盛ってばかりだった。
結婚披露宴でも、雇われ司会者が、
「それでは、新婦と そのお父様に、ダンスを踊っていただきましょう!」
(これ、アメリカの披露宴では、新郎新婦が、ファーストダンスと言うのを披露した後、ほぼ、必ずやる事。言わば 日本の 花束贈呈みたいな物で これが済まないと 他の人達も踊れない)
と言われた際も、きっぱり、
「わしは、嫌!」
と断って、周囲を困惑させた人だ。感情を出さない事、鉄面皮のごとし と言っても良い。
だから、
松井さんとイチローさんが一同に会する、この ヤンキースタジアムでのゲーム と、婿の配慮 が 本当に嬉しかったのだろう。
ちょうど、私の癌が発覚し、
「もう、うちには、関わらんといて!! 勝手にアメリカで死に!」
と 一旦、絶縁宣言が出てから、2年くらいが 経っていた。
彼のお陰で、絶縁どころか、今、両親のとりあえず、片方だけでも、涙を流して喜んでいる。
私が、一生かかっても 出来なかった事を、彼は、5年も経たないうちに、実現してくれた。
これは、ある意味、私が、余程のカス という事の証明にもなりかねないし 元来 私の言う事は、全くだが、他人の言う事には 聞く耳を持つ親と言う、日頃の信頼関係を 差し引いても
やはり、彼の人柄が、人種とか職業に偏見を持っていた 父の心を 一瞬でも 溶かし、気持ちが通じたせいだと思う。
これは、彼にして貰って、本当に嬉しかった事だ。
図々しい と 殴られるの覚悟で 言わせて貰うと、自分が出来なかった親孝行を、間接的に彼と言う人間を通して 少しだけ
させて貰った気分になった。彼と結婚して良かった。この先 彼が浮気等やって 離婚する事になっても私は 今日の事に免じ 文句は言うまい。とさえ 思った。
この日、ゲームはヤンキーズが勝ち、しかも、途中で、審判の判定に不服の申し立てをした選手の一部が、一斉に群れて、ちょっとした
乱闘騒ぎが起きた。
父は、その 異例のハプニングにも、
「おお!!、今日は おまけ つきや! こんな、乱闘騒ぎまで、生で見れるやなんてな!ウハハハ」
と、5歳の坊やのように、はしゃいでいた。 もちろん、旦那の手前、気を遣って、いつも以上にはしゃいで見せたのかもしれない。
が、、その後、何の因果か、この日の夕飯は
「そんな予約は聞いて無い」 (アメリカあるある)
と人気レストランに断られ、、、
「お前、何やっとんねん!! クソがそんな、英語もでけんのか!!」
と 再び 親を怒らせてしまい、彼のせっかくの努力も、水の泡と帰す。
そして、時は流れ、最後に、「アメリカに移住したい」 と親が言った際も、彼は、移民局の役所手続きから、親との同居に際した ちょっとした事まで、ホントに、最後の最後まで、心を砕いてくれた。
足が丈夫でなかった母には、車椅子まで手配し、親が我々の住む町に 降り立った瞬間から、どこへ行くのも、車いすを押してくれた。
が、親は、あの時程の、感動や喜びを 見いだせなかったらしく、終始不満だらけな上、最後は、
「お前も、ここでの生活も、最低やったわ!!」
と捨て台詞を吐くと ハワイ生活を暫くやった後、日本に永住帰国した。その後、我
は今度こそ、本当に絶縁する。
だから、未だに、親を片方だけでも、喜ばせてくれたのは、旦那だけだった と言う事になる。
ここまで、読んで、
これって、夫婦の話と違うやん?
何で、親の話ばっかしてんのさ!? お前は、バカだから、とっくに、身内から見捨てられてるんだよ。
それなのに、まだ、親にすがってさ、、夫婦の話にも、こんな トンチンカンな話題を出して、バカじゃないの
と思う人も居ると思う。
確かに、私には、「親を不幸にした」
と言う負い目が、常時、一生ついて回っているような処がある。。(この罪悪感と言うのは、わざとではないけれど、取返しの使ない事をやった と言う意味に於いて、うっかり 交通事故を起こし、誰かを 引き殺してしまったような、罪悪感に近いと思う。だから、いくら、「バカで不細工ですみません」 と、謝っても、許されないのだと思う)
けれど、それだけのために これを書いたのではない。
過去 数少ないながら、デートして、私に、優しくしてくれた男性は、沢山居たと思う。(ここで言う、沢山は、絶対値ではなく 割合の事をさしている。例えば、生涯でデートした相手の数が、5人ならその内の大多数=4人 とか言う意味)
けれど、交際相手 とか その候補だった 私に優しい男性 も、よく見ていると、
別れた彼女の事を、ボロクソに言う人だったり、(未練タラタラと言うのも困るけど、相手が100%悪い と 言い張るのも問題あるかも)
ちょっとした 行き違いや粗相をした店員等に、物凄く、悪態をつく人だったりすると
「もしかして、これは、将来の自分にも 向けられる この人の素顔なんだろうか?」
と考えさせられる事があった。
「デート相手に優しい男」は、沢山居る と思う。(この時点で、暴力や暴言を振るう男は、余程の要注意かも)
けれど、どうでも良いような他人にも優しい(鼻の下が長いと言う意味は 除外)人と言うのは、存外に少ない。
特に、鬱陶しい存在の権化 になりがちな、義理の親戚、これに、長期にわたって、変わらぬ優しさを持ち続けられる人と言うのは、あまり居ない気がする。で、その 優しさの延長上に、今 私が、毎日大切にされて幸せだと思う暮らしもある(のだと思う)。
念のため 断っておくが、彼は、親第一主義ではない。あくまで、嫁を一番に考えてくれる人でもある。
それでも、周囲への気配りを忘れないから、私が一生かかっても 出来なかった事をやってくれた。
審判 くらしに響きを。
と。
れでも期待して妊娠初期症状のフルコースを味わうことになるんだろうな
読んでいただきありがとうございました!!
審判通販、メーカー別、おすすめ別にご紹介しています。
してもらって嬉しかったことって何?
して貰って 嬉しかった事、、、
結婚してから、数えきれない程あります。 今も ほぼ毎日 何かしら 私の喜ぶを事をしてくれる彼(たまには喧嘩もするけどね)
で、一番うれしかった事は やっぱり、私を嫁に貰った上 今日まで捨てずにいる事( 冗談ごと、と思うかもしれませんが、私は
周囲から、そもそも結婚なんて 出来ないだろう(相手が居ない) と思われていたし、今の彼についても、絶対遊ばれてるし、じき 捨てられる と言われまくり 自分でも 「そうだろうな」 と思っていたので、これは、正直 驚きました。ありがとう 以外、何の言葉もありません)
で、その次に嬉しかった事 と言うか、特筆すべき事は、
私の父親が泣く くらい 喜ぶ事をしてくれた事
50年生きて、私は、自分の親を 何万回怒らせたか不明ですが、喜ばせた事は ただの一度もありませんでした。
バカで不細工だったせいで、親には、恥ばかりかかせました。
一回目に結婚した婿は、東大主席卒と言う 超エリートだったけれど、その分、彼と、彼の実家の態度が
私の親に尊大で、
うちのに親は、悔しい思いばかりをさせました
「お前は、貰い手があったから、喜んで、男と乳繰り合って ええ気なモンやろうけど、婿にもその実家からもバカにされる
我々の身にも なってみぃ!! お前に大した学歴も職もないから、こんな事になるんやないか!
それでも、お前は、平気の屁の河童で、今に子供でも産むんやろ!
顔があいつ(婿)に似て、頭の中身がお前そっくり (要するに、バカで不細工)の孫なんか、見たないわ!!」
と、何度 怒鳴られたか 解りません。
そもそも、結婚前から、エリートだけれど貧乏 な彼と結婚する事は、我が家とは、家の格が釣り合わないと、親は不満でした。
折しも、同じような時期に似たような年令の女性が、社宅暮らしの分際で(親は教職員) 皇室に嫁いだ と言うニュースが
日本中を駆け巡った事もあり 結婚式前日の夜、母親に
「他所のしっかりしたお子さんは、自宅さえない親でも、あの快挙や!
それに引き換え、てめえは、自宅のある親に、どんだけ恥かかせんねん。 あんな、クソど田舎の百姓にバカにされて!
うりゃぁーーーーーーーー」
と掴みかかられました。
日頃から、殴る蹴る、物をぶつけるは当たり前とはいえ、いくらブスでも、流石に、一生に一度(結果的に3回やっちゃったけど)の
結婚式で、顔にあざとか、目が内出血で真っ赤とか言う敗戦ボクサー状態での 記念撮影は 避けたかったので 誠に勝手ながら、
飛び掛かる母親の両腕を、自分の手で 制してしまいました。
(いつもは、だいたい、よけるか、気が済むまで 殴らせてました)
私の母親は、戦時中に成長期を迎えた、万年欠食児童だったせいか、
とても血管がもろいらしく、ちょっとした事で すぐ青あざ が できてしまう体質の人でした。
で、その時も、私が 母の手首のちょっと下あたりを、グっと握って 動きを制したため、そこが、あざになりました。
この時の事を母は いつまでも覚えていて、後、私達が離婚した際も、そのずっと後も、何かあるたびに
「結婚式の前にはな!、普通の子供は、親に これまでの礼 を言うて、出て行くもんや
それを、てめぇは、親に暴力なんか、ふるたやろ!!
そやから、離婚になったんや!!
やっぱりな、人の道に外れるような事 は、するもんやないわ! ざまぁみろ!バチ当たったぁーるねん 」
と よく言われました。 「正当防衛」が、いつの間にか「暴力」にすり替わっているのには閉口するけれど、とにかく、私に、輝かしい学歴が無い事で、親が惨めな思いをし 家庭内が穏やかではなかったのは事実。
そして、すぐ離婚したけれど、2番目の夫も、親とはそりが悪かった。
今の彼も、貧乏だし 職業も兵隊 という事で、親の機嫌は、超絶悪かったのですが、(が、私の婿と言うのは、親の配偶者ではないゆえ、そう文句ばかり云われてもなぁ、、と言う気はする。もちろん、家族に迷惑をかけたいとは思わないけれど)
が、彼は実に温厚で親切な人ゆえ、親の関心を買いたいという下心等なしに、いつも、純粋に親に良くしてくれた(と思います)
軍人一家は、数年おきに、引っ越しをするのが常ですが、我々も結婚したハワイから、あちこちを転々とし、そのたび、
私の親が そこを訪ねて来た際には、いつも、出来る範囲で、親が一番喜びそうな事をしてくれました。
それでも、、、
連れて行く 観光地やレストラン等、東京で割と豊に暮らしている人間にとっては (今、日本は世界一安全で快適に暮らせる国かもしれません。)
「なーんや、しょーもない。この程度か」
と思う事も多かったらしく、影で 私に 随分文句を言いましたが、私は彼に この親の本音を伝えた事はありません。
自分自身で、良かれと思い これまで親にやった事で、
「何やねん、こんなもの!」
と 目の前で、ゴミ箱に捨てらた物とか、
「今すぐ、出ていけ!」
「土下座しろ!」
等言われて 良い気分だった事がないので、
自分が やられて嫌だった事は、人にはやるまいと言う考えから、彼に、親の本音は告げませんでした。
が、不平不満だらけの親が、一度だけ喜んだ例外 がありました。
それは、12、3年前の初夏、親をニューヨークのホテルに泊め、観光案内した時の事です。
一応、名所と言われる所を見せて回り、美味しいと評判のレストランに連れて行き その際は、
文句もあるし、「まあまあやね」 と言う評価の物もあって、ここまではいつも通り だったのですが、この時は、
旅の最後に私の旦那が、私の父親に
ちょっと早めの誕生日プレゼントを用意してくれました。
当時、土曜も出勤だった彼は、仕事を終えると、隣の州から ニューヨークにかけ戻り、親と我々を、
手配した車に乗せてくれました。
普通のタクシーと違い、かなり良い車を呼んでくれました。
私の父親、実は、筋金入りの、野球好き。特に、大リーグのニューヨーク ヤンキーズに、目がなく、
しかも、日本の選手では、巨人時代から、大の松井秀喜選手好き。
当時、松井選手は、ニューヨーク ヤンキーズに移籍し、一軍で活躍していました。
父は、毎シーズン、ヤンキーズの試合は生中継で観、そのため、時には昼夜逆転するような生活をしていました。
もちろん 録画もしているのですが、やはり、同時に見ないと、気が済まない。
けれど 好ゲームなら その録画を何度も再生するゆえ、録画にも意味がある。
そういう ハードコアなファンでしたが、日本を含め、球場へゲーム観戦に行った事は ありません。
母親が、こういうスポーツには 一切興味が無い人なので、
興味のない人間にとって、何時間も 暑い中、寒い中 スタジアムの硬いシートで 尻を温め続けるのは 拷問以外何でもありません。
だから、父は 母に遠慮もしていたのでしょう。(我が家、圧倒的な かかあ天下家庭)
実際、アメフトの大ファンである 旦那の義父が時々、スタジアムへ観戦に行く話をするのを聞いた母親は、
「ここの家は、男ばかりが、威張り腐って、ゲームやなんやと 好き放題。 女はみな、飼い犬か?
ブスでもてへん女は、洋の東西問わず、男の顔色を伺うようにして、ようやく、お傍に置いて貰えると、、。情けないこっちゃ」
と 呆れ顔をしていました。
確かに、義母は、物分かりは良いけど、およそ モテ系女子ではない と言う感じの人だし、義父もワンマンな感じがします。
それに比べて、母は、若い頃から、モテまくりだったので、男の機嫌を取る と言う事は無かったんだと思います。
そう言う事情を知った彼は、(母の苦言ではなく、父が 野球好きなのに、ゲーム観戦の経験0 と言う事実)
ヤンキーズと、当時 イチロー選手が所属していた、シアトル マリナーズの試合の、かなりいい席を、父の為に買ってくれました。
もちろん、父はヤンキーズスタジアムにも、行った事がない。
これは、さぞかし、喜ぶんじゃないか
と言う事で、その日、泊まったホテルをチェックアウトした後、自宅に戻る前
「ちょっと、離れた場所で、ランチをしてから 帰る」
と言って、2人を手配した車に乗せました。
が、父親は、私と違い、旧制中学や名門高を出た秀才ゆえか、土地勘その他も、とても鋭い人でした。
初めて 訪れた ニューヨークにも関わらず
ホテルを出た後、車が北上し、治安が悪い事で有名な、ブロンクス地区(ヤンキースタジアムはこの地区にある)
へ向かいつつあるのを、
車窓からの景色が次第に すさんで行くのと同時に、体内コンパス(方向感覚)で、がっちり把握したらしく、
「おい!この車、どっち向いて走ってるねん! おかしな方向へ行っとるやないけ! これ、ブロンクスの方とちゃうんかい!?
そんな場所で、昼飯食う はずが無いやろ!?」
と、色めきたちました。
私は、球場に着くまで、「お楽しみ」 を 隠しておきたい一心で、
「そうかな?」
ととぼけていたのですが、これが、裏目に出ました。
とうとう、父親は、己の側にある 車のドアロックを解除して、
「おい、次の信号待ちで わしは、飛び降りるぞ! これ、絶対、、ぼったくりタクシーや!
このままでは、裏道に引きずり込まれて、身ぐるみはいだ上に、撃ち殺されるぞ
お前が、バカやから、こんな事になるんやろ!
なんで、車を、ホテルで手配せーへんかったんや! わしは おかしいと思うてたんや!
どこの、車を 呼んだんや!! これ、強盗やないけ!!アホンダラ!!」
と、悲鳴に近い絶叫を挙げ、母親も、それに呼応すると
「てめえ、何ちゅう事を してくれんねん! えらい事やがな!!
ぼんくらのせいで、こっちゃ、殺されてまうわ!
人殺しーーーーーーーーーー
アホ!!
おい、止めろ、車止めろ!
お前! 言えよ! 停めろって!!
STOP!! PLEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEASE。
お前!!、その運転手、どつけ!!」
と、後部座席が大騒ぎに、、、、
さすがの、旦那もコトの次第に 気づきます。
助手席から
「どうした?」
いや、、これこれ しかじかでさ、、
もう、「殺される」 って、飛び降りかねない勢いなんよ、、
「、、、、何だかなぁ、、、
もうちょっとで 到着なんやがな、、
ほな、しゃーないな、」
そう言うと、旦那は、ヤンキーズのゲームチケットを、出して、父に見せました。
「「きっぷ」です」
「え???何?!」
パニクっていた 両親は、
ヤンキーズ スタジアム、ゲーム と書いた チケットを見ても、一瞬 事態が呑み込めなかったようで、呆然。
その時、ちょうど、車が、スタジアム前に 滑り込みました。
テレビでお馴染みの、円形球場を真近に見た 父親は、言葉を失っていました。
「ご高齢の方ですゆえ、できる
け、ゲート入り口まで、近づいてから 停めますからね、、」
手配した運転手は、当然の事ながら、追いはぎでも何でもない 普通に親切なおっさんで、
ゆっくり、車を走らせながら、ゲートのほん近くで、
「ここで、よろしいですか? では、お帰りの際も、同じ場所で、ピックアップいたします。お電話くださいね。どうか、お楽しみください」
と、礼儀正しく にこやかに去って行った。まさか 己が もう少しで ブン殴られる運命だったとは 露ほども知らずに、、、
ようやく、事の次第が飲み込めた父は、
旦那の手を 己の両の手で、握りしめると、涙ぐんでこう言った。
「ありがとう! いやーありがとう!!〇〇君、ほんまに、ありがとう!!
もう、わし、生きてる間に、こんな事を、人からして貰えるなんて、思った事もなかったわ、、、
わしの為になぁ、、こんな手配してくれて、、、君だけやで、わしが喜ぶ事をしてくれた身内わ、、、
こんな、碧い目した君が、僕の 息子(義理やけど)やねんな、、、
もう、信じられへんわ、、
わしは、もう、今日、今、ここで死んでも かまわへんわ、、ほんま、ありがとうなあ、」
そう言うと、さっきから握ったままの彼の手を 滅茶苦茶に振り回した。カクテルを拵える、バーテンダーのようだった。
旦那は大阪弁はおろか、日本語が ほぼ解らない人ゆえ、跡形が残るほど握った手を振り回した挙句(ガリガリだし爺のくせに、結構怪力の父) 果ては、上から鼻水まで、落とさ、困惑気味だったが、片言の日本語で、
「オトーサン 、ダイジョウブ。。。さぁ、ゲーム イキマショー」
「ワーン」
それでも、父は しばらく、握りしめた手を離さなかった。
父は、金持ちとは言え、だいぶ没落した家系の長男に生まれ、両親も結構厳しかったゆえ、あまり、甘やかされた事がない。
その上、世は戦争、不況と、荒れ放題。
ただ、放っておいても、勉強は出来る人だったゆえ、私のように、親から「勉強せい!」と言われた事はないらしい。
けれど、小遣いナシ(子供時代から)、最終学歴は、思ったほど伸びず親に失望され、大恋愛の末に射止めた 評判の美女は
貧乏家庭の気の強い女だったため、その事でも、親から、だいぶ、叱責されたらしい。
以後は、親と嫁の間の板挟みで、マスオさん状態となり、生まれて来た子供は、ブスで大飯ぐらいの、パッパラ、だった、。あまり 幸福なプライベートライフとは言えない。 一方の仕事も官僚をやめ、脱サラもした後は、自営業で苦労のし通し、、良い人生だったと言えるかどうか?、、特に私の存在は、頭痛の種だったらしく
ある日、つくづく 私を見ながら、
「ワシが男やったら、お前みたいな(女)とは、結婚 したないわ」
と しみじみ 言った事もある。
その時私は、「いや、お父さんは、男です(もしも男やったらと言う事に対して)」 と答えるのがやっとでした。
深い真剣な 返答をすると、お互いが 逃げ場を失い 修復不能なほど 気まずい状態になる気がした。
私が、大学受験に失敗し、第三志望に入学の際は、家が割れる程の喧嘩となり、父が、怒り狂う母親に
「こんな、バカでも、殺すわけにいかんねん」 と泣き叫んだ事もあるわけで、、、
男前で、秀才で、家柄もそこそこだったのに、思えば、辛い事だらけの人生だったんじゃないか、、、
特に後半戦の苦悩の元は、私が持ちこんだ可能性大なわけだ。
だから、父がこんなに、喜ぶ姿を 私は見た事がなかった。後にも先にも、この時一回きりだったと思う。
父は他人の前で 感情を出すようなタイプ
はない。ゆえ 水っ鼻を垂らして、娘婿の前で、泣くなんて言うのは、余程嬉しかったに違いない。ちなみに、私の結婚式でも、父は泣いた事など一度もない、
それよりも、私の不手際とか、バカ面を見るたび、
「アホ、ボケ!」
「皆さまに、土下座しろ!」
などと、喉●んこ 丸だして、吠え盛ってばかりだった。
結婚披露宴でも、雇われ司会者が、
「それでは、新婦と そのお父様に、ダンスを踊っていただきましょう!」
(これ、アメリカの披露宴では、新郎新婦が、ファーストダンスと言うのを披露した後、ほぼ、必ずやる事。言わば 日本の 花束贈呈みたいな物で これが済まないと 他の人達も踊れない)
と言われた際も、きっぱり、
「わしは、嫌!」
と断って、周囲を困惑させた人だ。感情を出さない事、鉄面皮のごとし と言っても良い。
だから、
松井さんとイチローさんが一同に会する、この ヤンキースタジアムでのゲーム と、婿の配慮 が 本当に嬉しかったのだろう。
ちょうど、私の癌が発覚し、
「もう、うちには、関わらんといて!! 勝手にアメリカで死に!」
と 一旦、絶縁宣言が出てから、2年くらいが 経っていた。
彼のお陰で、絶縁どころか、今、両親のとりあえず、片方だけでも、涙を流して喜んでいる。
私が、一生かかっても 出来なかった事を、彼は、5年も経たないうちに、実現してくれた。
これは、ある意味、私が、余程のカス という事の証明にもなりかねないし 元来 私の言う事は、全くだが、他人の言う事には 聞く耳を持つ親と言う、日頃の信頼関係を 差し引いても
やはり、彼の人柄が、人種とか職業に偏見を持っていた 父の心を 一瞬でも 溶かし、気持ちが通じたせいだと思う。
これは、彼にして貰って、本当に嬉しかった事だ。
図々しい と 殴られるの覚悟で 言わせて貰うと、自分が出来なかった親孝行を、間接的に彼と言う人間を通して 少しだけ
させて貰った気分になった。彼と結婚して良かった。この先 彼が浮気等やって 離婚する事になっても私は 今日の事に免じ 文句は言うまい。とさえ 思った。
この日、ゲームはヤンキーズが勝ち、しかも、途中で、審判の判定に不服の申し立てをした選手の一部が、一斉に群れて、ちょっとした
乱闘騒ぎが起きた。
父は、その 異例のハプニングにも、
「おお!!、今日は おまけ つきや! こんな、乱闘騒ぎまで、生で見れるやなんてな!ウハハハ」
と、5歳の坊やのように、はしゃいでいた。 もちろん、旦那の手前、気を遣って、いつも以上にはしゃいで見せたのかもしれない。
が、、その後、何の因果か、この日の夕飯は
「そんな予約は聞いて無い」 (アメリカあるある)
と人気レストランに断られ、、、
「お前、何やっとんねん!! クソがそんな、英語もでけんのか!!」
と 再び 親を怒らせてしまい、彼のせっかくの努力も、水の泡と帰す。
そして、時は流れ、最後に、「アメリカに移住したい」 と親が言った際も、彼は、移民局の役所手続きから、親との同居に際した ちょっとした事まで、ホントに、最後の最後まで、心を砕いてくれた。
足が丈夫でなかった母には、車椅子まで手配し、親が我々の住む町に 降り立った瞬間から、どこへ行くのも、車いすを押してくれた。
が、親は、あの時程の、感動や喜びを 見いだせなかったらしく、終始不満だらけな上、最後は、
「お前も、ここでの生活も、最低やったわ!!」
と捨て台詞を吐くと ハワイ生活を暫くやった後、日本に永住帰国した。その後、我
は今度こそ、本当に絶縁する。
だから、未だに、親を片方だけでも、喜ばせてくれたのは、旦那だけだった と言う事になる。
ここまで、読んで、
これって、夫婦の話と違うやん?
何で、親の話ばっかしてんのさ!? お前は、バカだから、とっくに、身内から見捨てられてるんだよ。
それなのに、まだ、親にすがってさ、、夫婦の話にも、こんな トンチンカンな話題を出して、バカじゃないの
と思う人も居ると思う。
確かに、私には、「親を不幸にした」
と言う負い目が、常時、一生ついて回っているような処がある。。(この罪悪感と言うのは、わざとではないけれど、取返しの使ない事をやった と言う意味に於いて、うっかり 交通事故を起こし、誰かを 引き殺してしまったような、罪悪感に近いと思う。だから、いくら、「バカで不細工ですみません」 と、謝っても、許されないのだと思う)
けれど、それだけのために これを書いたのではない。
過去 数少ないながら、デートして、私に、優しくしてくれた男性は、沢山居たと思う。(ここで言う、沢山は、絶対値ではなく 割合の事をさしている。例えば、生涯でデートした相手の数が、5人ならその内の大多数=4人 とか言う意味)
けれど、交際相手 とか その候補だった 私に優しい男性 も、よく見ていると、
別れた彼女の事を、ボロクソに言う人だったり、(未練タラタラと言うのも困るけど、相手が100%悪い と 言い張るのも問題あるかも)
ちょっとした 行き違いや粗相をした店員等に、物凄く、悪態をつく人だったりすると
「もしかして、これは、将来の自分にも 向けられる この人の素顔なんだろうか?」
と考えさせられる事があった。
「デート相手に優しい男」は、沢山居る と思う。(この時点で、暴力や暴言を振るう男は、余程の要注意かも)
けれど、どうでも良いような他人にも優しい(鼻の下が長いと言う意味は 除外)人と言うのは、存外に少ない。
特に、鬱陶しい存在の権化 になりがちな、義理の親戚、これに、長期にわたって、変わらぬ優しさを持ち続けられる人と言うのは、あまり居ない気がする。で、その 優しさの延長上に、今 私が、毎日大切にされて幸せだと思う暮らしもある(のだと思う)。
念のため 断っておくが、彼は、親第一主義ではない。あくまで、嫁を一番に考えてくれる人でもある。
それでも、周囲への気配りを忘れないから、私が一生かかっても 出来なかった事をやってくれた。
審判 関連ツイート
西部さんは相変わらず安定した良い記事書くから勉強になる